初詣といえば、年の初めにその年の無事故と健康を神様にお願いする行事ですよね。
そうすると、初詣の行先は神社ではないのか、と考える方も多いと思います。
しかし、現実には神社だけではなく、お寺にも多くの人たちが初詣に出かけています。
これは一体どうしてなのでしょうか。
しかもそのことについては、私も含めてほとんどの人が違和感を覚えることなく受け入れているのですね。
けれども、あらためて考えてみると、少し不思議な気持ちがします。
そこで、ここでは初詣の行先は神社とお寺のどちらが正しいのか、またその答えの理由は何か、について解説します。
初詣でお寺に行くのはおかしいって聞いたことがあるけど実際どうなの?
初詣の行先は神社、お寺、どちらも正解です。
ただ、初詣にお寺にいくのはおかしい、というイメージを持っている方は多いようです。
昔は正月には家に歳神様を迎え、その後に、地元の神社に詣でるということが行われていました。
なかには、家長が大晦日の晩に氏神様を祀った神社に籠って正月を迎えるということもあったのです。
その後、大晦日の晩に神社に籠って新年を迎えるという形式が廃れ、元日にお参りに出かけるという初詣のスタイルが定着しました。
このような初詣の歴史を見る限りでは、お参りの対象として登場するのは、もともとは歳神様や地域の氏神様であって、仏様ではないのですね。
そうすると、初詣にお寺に行くというのは厳密にいえばおかしいのではないか、という理屈が成り立つわけです。
しかし、実際には、大勢の人々が何の違和感ももたずにお寺に初詣に出かけています。なぜでしょうか。
理由として挙げられるのは、日本で昔から行われてきた神仏習合という信仰のあり方です。
元来、日本人が信仰の対象としていたのは神様でした。
八百万の神々とも呼ばれていますが、日本人は樹木や石さらには山といった目にするすべてのものに神様が宿ると考えていたのです。
それが大陸から仏教が伝来したことによって変わってきました。
簡単にいうと、いずれか一方が他方を排斥するのではなく、教義上、仏様も神様も一緒だとされてきたのです。
これが神仏習合と呼ばれるもので、日本人の信仰に対する考え方の基底部にあるのですね。
そのため、正月の初詣についても、行き先が神社であろうが、お寺であろうが違和感がなく、どちらに行ってもかまわないわけなのです。
一般的には神社とお寺、どっちなの?
それでも一般的には神社とお寺、どちらに行くのがよいのか、という疑問は残りますよね。
この点については、どちらでもよいのです、と答えるしかありません。
江戸時代には恵方参りといって、その年の縁起のよい方角にあるお寺や神社に行くことが多くありました。
先ほど紹介した理由から、もともとお参りをする先についてのこだわりはなかったのです。
明治時代になってから、廃仏毀釈ということが行われ、お寺と神社は別々のものとされるようになりましたが、お参りに行く場所という点ではまったく変わらない状態が続きました。
むしろ、明治時代になると、鉄道が発達したことで人々の行動範囲が広がり、ご利益があるとされれば、神社もお寺も関係なく、日本全国の神社仏閣が初詣客でにぎわうようになったのです。
また、全国の神社やお寺でも初詣客を呼び込むために様々な宣伝を行うようになりましたから、なおさらこの傾向に拍車がかかるようになったのでした。
確かに初詣という行為自体は個人の信仰の発露といえるかもしれません。
しかし、その実態としては、人々の娯楽やレジャーに供するものといった側面のほうがより大きくなってきたといってよいでしょう。
もともとが、神社に祀られている神様もお寺の仏様も同じという考え方があって、そこから派生してきた問題ですから、初詣だからといって、とりたてて両者の違いを気にする必要はないのです。
まとめ
初詣の正しい行先は神社なのか、それともお寺なのか、という点について解説してきましたが、いかがでしたでしょうか。
もともと日本人には、神様と仏様は同じものとする考え方がありました。
そのため、初詣の行先についても厳密な立て分けはなく、一般的にご利益があるならどちらでもかまわないとされてきたのですね。
あまり肩肘をはることなく、気軽に初詣に行ってよいのではないでしょうか。